大人にとって友達は必要か?自称友達が多いという人の特徴

■大人にとって友達は必要か?

友達100人は目指すべきか?

自称友達に要注意?!

友達と言っても話をしている人のレベルによって「友達の基準」はさまざまです。

中には

「そんなの別に友達でもなんでもない(」
自分が勝手に友達と自分が思っていれば友達なのか?」
「おそらく自分が友達と思っている人の数相手からも友達と思われている人の数が異なる」
「記憶の中の友達(何のしがらみや環境の重みもなく単に楽だから付き合っていた友達)」

コレをすべてトータルすればだれでも一生のうちに100人ぐらいは友達が居るのではないでしょうか?

それはそれで心の中の財産としてしまって置けばいいと思います。
また将来同窓会で盛り上がるときを楽しみにして置けばいいのかもしれません。

ただ、

「現在自分には友達100人居ます(大真面目そうな表情で)」
「(人脈的にあなたよりも)すごいでしょう」
「友達が居ないんですか?(友達がいない、友達を作らない、あなたはかわいそう)」
「自分は魅力があるということ、自分の満ち足りた人生を友達の数が実証しています

という人はあまり格好いいとは思わない人もいるかもしれません。

友達という表現自体も、結構あいまいな基準です。

実際は当人の友達と呼んでいる相手との付き合い方を知ったり、友達が多いといっている人の本人像を見ると、

・話の中身がない人(誰とでも適当にあわせているつもり。会話は挨拶レベル)
・あまり物事を考えていない人(意見が対立ほど会話が深化、発展することがない。見方によっては人間的にもつまらない人)
・何の深い議論や趣向もない人(と思っている)は友達が多い

ケースもあります。

友達が多いといいながら、
本当の友達が不足しまくっている
「本当に話し合うほどの人は今はゼロ、単に形式的に年に数度つながっているだけ」
そもそも友達100人と他人に自慢げに言いたいために寄せ集められただけのほぼつながりがうすい100人」
面識はある、顔は知っているが親しくないレベル、とでも呼んだほうがいいレベル」

状態ですね。

そんな張子の虎(はりこのとら=友達の多さ)に、価値はあると思いますか?

本質的な自分の価値を押し上げるよりも

友達を100人つくるほうが優先度があることでしょうか?

友達(ときには自分が勝手にそう呼んでいる人)の効用

・友達は単に好意的な反応を返してくれる
・話をすればプラスのリアクションで褒め称えてくれる人
・言いにくいことは空気を読んでやんわりスルーしたり、痛いところは指摘せずに表面上はなんの問題もなく過ごせる相手
・結局大事なことは何も言ってくれない、相手から求められない、聞かれもしない
・そもそも自分より知識がなさそうで相談を持ちかけようとする人が皆無

と定義している人は友達(と呼んでいる人)の数ばかり多いケースがあります。

友達は自分の鏡であることはよくありますが、友達が自分以上にすばらしいことは少ないです。

良い意味でもそうでない意味でも「類は友を呼ぶ」です。

似たようなレベルだから、お互い友達と呼べたのかも知れません。

もし
「自分には友達が100人居ます」
という人が居たらその人をじっくり見ることです。

類は友を呼ぶとすれば、

「この人が仮に100人居て本当にすごいだろうか?(いるならいるで、別にほこって自慢げに言わなくてもいい気がするが)」
「100人居ますと言い切れる根拠はたぶんない人の集まりなんだろうな(浅いんだろうな、あるいは友達のグループの中でこの人は浮いた存在なのではないかな?)」
こういう見かけにこだわる人にだけは自分はなりたくないことを思い出した」
つまらない人だな。。」

という風に見えてくるかもしれません。

大学を出て、大人になるにしたがって、友達と呼べる人はどんどんかわって行ったはずです。

それは

・生きるステージの進歩
・人生の目標の変化
・価値観の変化
・話があわなくなる
・よかったと思った友達が、実際はつまらない相手に思えてくる
・相手と進歩のスピードに差が出来てくる。
・明らかに落ちぶれている(ように見える)
・そもそも忙しくてわざわざ用もない(よく考えたら)連絡しようと思えない

これって本当に友達だったのでしょうか?
暇つぶし、時間を埋める一つの要素だったといえるかも知れません。

すくなくとも現在の生活には
いっときでも入る要素のない存在、むしろ入ってきてもらっては邪魔になった存在といえるはずです。

部屋の掃除をして出てきた古いごみ(とまでは言えない場合もありますが)
それに近い賞味期限が切れた古い年賀状かもしれません。

その当時はがんばって年賀状は書いた。
そこにこめられた気持ちは変わらないし、色あせない。

しかし何の交流もない以上、もはや過去のことなのです。
昔は友達だった、なのです。

一つの

・今の自分に合わなくなった
・必要なくなった(時間的、精神的、知識的にそもそも重荷に感じる。メリットよりデメリットが大きそう)
・よく考えれば大して価値を感じない

これらの人間関係の卒業時期に来ていると言ってもいいかもしれません。

人はなぜ友達を求めるのか?

しかし、友達は自分の人生を楽しませてくれたり、結婚式でそれなりに格好が付いたりはするかもしれません。

負荷的に友達や友達の数になど自分の本質的な価値、評価とは何の関係もない

友達の基準

たとえば友達の基準には以下のようなものがあるかもしれません
・SNSで1時間ごとに状況を確認している(中にはたんにチェックしているだけで大して興味ない人が含まれているケースも)
・顔と名前が一致するだけの友達(詳細は知らないし、知りたくもない
・1ヶ月~数ヶ月に1回連絡する友達(大人であればお互いに必要とされているレベル。若者同士であれば疎遠な関係。)
・1年に1度は連絡する友達(年賀状で近くにお越しの際はお立ち寄りください、ただし実際は立ち寄れないレベル。今更くわしい話をするのもこわそうな友達)
・年賀状が来ない友達(年賀状がすべてではないですが、1年に1回連絡するつもりもないし、連絡も来ない、相手に関わる用事がない。もっと言えばどこでどんな生活を送ってもらおうが興味関心がお互いにない、つまりほぼ他人状態
・10年前に会ったきり、当時単にうちわのグループで付き合っているつもりだった友達(今となれば別に友達でもなんでもない場合も)

友達の基準がゆるければ友達は増えるのかもしれません。

また、自分の基準をどんな相手に合わせられる人は友達の数は増えるはずです。

ただし、自分の基準をどんな相手にも合わせられるということは

自分の基準がない場合もある。
・柔軟性と呼べる場合もありますが、物事を深く考えずとりあえず友達枠として処理しているだけ
・ときには相手の迷惑も考えずに、友達だと思い込んでいる
・狭い範囲だけでつながっていた相手(テーマパークなどで一緒に楽しむ分には楽しいが、テーマパークの外に出れば、相談や一緒に壁を乗り越える際など、実際は頼りにならない相手。同種の集まりであるため、ともに知識、経験に乏しい者同士が集まっているケースがある)

場合も多いはずです。

人生をより豊かにするために友達が多いことはすばらしいことですし、

オプション的に友達が増えることは望ましいことです。

しかし友達の数を増やすことが最優先ではないはずです。

他人より優越感を得るためだと思うのですが、

「私には友達が○人います」

と自分からいう人は

「○人の友達(単に自分の本質的価値とは異なる単なる他人)の数」に価値基準を置いている時点で、

友達は数字でしかないのかもしれません。

本人も、あるいはこちらから見ても

・自信がない(もっといえば自分とは何者か、自分の立場がわかっていない)
・実績も乏しい(金銭的、人間的、知識的、社会経験的にできること、スキル)
・単に虚勢を張っているだけ(筋肉マンに見せたいがりがり君)
デコレーションをつけて自分を装飾しているだけ

のケースも多いはずです。

友達の本当の価値とは?

無条件に

「友達が1人より、友達100人のほうがすばらしいんですよ!」

と言ってもいいのでしょうか?

その人がすばらしい人である場合は100人はすばらしい人でしょう。

しかし

その人がちょっと。。な人の場合は、友達の基準もどこか変かもしれませんし、集まっている友達100人の内容をきっちり中身を知ってから評価したほうがいいかもしれません。

類は友を呼ぶ

友達の質を推し量る場合、

いい場合も、そうでない場合も使えるはずです。

お互いに自分を安全エリアにおいて、表面だけでつきあっている友達も居るでしょう。

そういう踏み込めないエリアがたくさんある相手、との付き合いを望まない場合は

友達の数よりも、そもそも自分を進化させることを目雑のも一つの手かもしれません。

友人との対話というのはひいては自分との対話でもあるはずですね。

友人をたくさんつくればいいというのは納得できないという場合は、

自分自身で自分と適切な対話できる自分を目指すのも一つの方法ですね。

また単に知識を得たいということであれば

ネットからでも得られるものは多いはずです。

友達が100人いないとかわいそう、

この言葉はもはやどうでもよくなるかもしれません。

また本人の中身のなさや薄っぺらさをカバーできるほどの効力もほとんどないですね。

弱い人ほど群れたがる?

たしかにお互いの弱点をカバーしたり、

不足している部分を上手に指摘しあったりして

切磋琢磨互いに成長できるメリットは大きいかも知れません。

しかし

問題解決能力をつけたいなら何でも一人で出来るようになることが望ましいはずです。

たとえば海外旅行をするときに英語での問題解決能力が付くのはどちらでしょうか?

複数人海外旅行をした場合

・数人で行動しているので責任の所在が不明(責任感、緊張感の希薄化)
・英語を話せる人物だけが現地人に対応(現地人と一言も話さなくても生活できてしまう)
・結局友達との会話に終始(異文化体験の減少)
・せっかく外国に行っても、北海道や沖縄旅行同様写真の背景が異なるのみ(文化や交流がすくない)
・困ることから得られる気づきが少ない(だれかが対応するだろう的な解決になりがち)
・各人の好みや、意向が反映されにくい(お互いに足を引っ張る状態になることも)
・リスクについては我関せずでも誰かが解決する(アンテナ、リスク感度の鈍化)

これでは問題解決能力が身に付くとは言いにくいはずです。

一方一人で海外旅行をした場合には

・チケットの手配からホテルの予約、現地人との買い物などでのやり取りはすべて1人でこなすことが必要
・出会い、プランなどの柔軟性が複数人よりも自由になりやすい(休憩、学習、メリハリをつけやすい)
・すべての時間を自分の意志で選択することが可能
・リスクは自分で管理することを覚える(自己管理能力の向上、アンテナ感度を磨ける)

一人で行動することでしか身に付きにくい能力もあったりしますので、
何も考えず多人数であることのメリットだけを信じるのも

友達が居ることで得られるものは、
共感、自己評価の追認、時間の共有、知識の共有

ただし
一人で得られるメリットもこれに劣るでしょうか?

自己管理能力、プラニング能力

これは誰かと(たとえば海外旅行)四六時中まかせっきりでは身に付きにくいもののはずです

友達がいない場合も

自己修正力、知識を手に入れるチャンネルはお金を払えばある程度書籍などからも学ぶことは可能なはずです。

ですので友達がたくさんいないからといって

悲観する必要はまったくないはずですね。

あなたは自由に海外旅行する時間が与えられている。

現在会う友達が居なければ

そこで本当に自分にあう友達が居れば友達になればいいですし、

すくなくとも

「友達が居ないなんてかわいそう」

「友達の数で人生決まります」

的な圧力で?友達を作るなんてのはナンセンスかもしれません。

実際のところは

100人も友達が居るって、そんなの逆に友達とは呼べないでしょうw

「じゃあその友達リスト100人の中に同じように、友達としてあなたの名前が挙がっていると本当に思いますか?」

「そんなに友達と連絡取っていたら、友達を維持するだけで大変そうですね。ほとんど実際は役にも立ちそうにないものをあつめて、友達が少ない人に偉そうにする生活は不自由でしょうね」

ということも多いはずです。

役に立つ役に立たないを基準にするなら

スマホやパソコン1台のほうがよっぽど知識を得るには役に立ったりします。

昔は知識を得るにはたくさんの友だちも有効だったかもしれませんが、

現在は単に知識であればパソコン、スマホのほうが早くて役に立ったりします(人間的なふれあいは少ないと思いますがその点は今回は無視できるとします)

友だちはそんなにたくさん必要なのか?

友だちはそもそも必要なのか?

そう考える場合には

必要なければ別にいらないじゃないか?

そもそも友だちと言っている人物も本当の友達はいないかもしれない。

とややマイナス寄りな見方で眺めてみてもいいかもしれません。

役に立つというだけなら友だちより役に立つものは世の中にあふれています。

無二の親友(2つとないもの)は他では代替できないから無二の親友なのです。

「無二の親友がいない自分はだめなやつ」

「友達がいないといわれた自分は本当にかわいそうか?」

「そもそも友だちを作ろうと最近思わないんだが?」

という場合は

現在友達がいない場合も

自分が自分の友だち、自分の最高の友だちだと思うようにすることをお勧めします(多少くらいですがw)

自分が友だちであれば、友だちがいなくなることは一生ありえないですねw

つまり

自分の中にもう一人の自分(友だち)をつくる=自分の中に複数人の視点を持つ=複眼的思考を持つ

にもつながってきますので、ビジネスにも、恋愛にも、結婚生活にもいかせるはずです。

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