■年寄りにいってはいけない禁句
そのときはまだ気づかなかった。
「暇そうですね」
が禁句というか核心を突きすぎている言葉であることを。
これはケンカを売っているに等しいですね。何もすることなどなくて当然なのです。
しかし、ついつい本当に暇そうなものだからストレートに見たままを口走ってしまうこともあるでしょう。
あとから、ごめんなさいと思いますけどね。。
お年寄りにとって、人生で「やり残していること」があった方がむしろまずい位なのですから。
暇なんです、思いっきり
ただいくら暇そうに見えても、「元気そうですね」くらいにとどめておいた方が近所づきあいとしてはベターでしょう。
たしかに暇だと思いますけど、よほど長居されてうっとうしい場合をのぞいては「暇そうですね」は禁句の部類に入れておきましょう。
実際は年がら年中死ぬほど暇なはずです。
どれくらい暇なスケジュールで過ごしているかというと。
ほぼ毎日、
・大相撲を幕内から結びの一番までみる
・プロ野球を1回の表から9回の裏まで見る
・途中で眠くなったら寝る
それくらいお年寄りはたいてい暇なのです
(これの例も偏っていますし、男性の一部のそうに限定されますけども。。たとえるならばというつもりです)
本当はテレビなど飽き飽きしている
しかし
それを指摘されるのは大嫌いなのです。
やることないのか?
とつっこみたくなりますが、食べること以外はフリープランなのです。
若い男女のように異性を求めて積極的に出かけることもしませんし、仕事も引退、周囲の年寄りはほとんど亡くなってしまった場合もあたったりします。
むしろやることないから
とりあえず貴方の前に姿を現した
のです。
暇の相手をしろよってことです。
いやいや暇じゃないので相手したくないときも正直あるでしょう。
頻度の問題です。あんまり度々来るなよって感じです。
あまり待遇や居心地良くしすぎても毎日来られると話すことないです。
くる度にお茶菓子をねだられるようになるとうっとうしいでしょう。
適当に居心地悪くしておくことがこつです。
ときたま「毒のある質問(かつ本当に知りたいこと)」を投げかけるのもそれなりに効果があります。
ただし答えは求めないでください、そんなこと聞かれてもお年寄り自身が余りよくわからないのです。
人間誰しも「自分が本当は何で生きているかも実際わからないことだらけ」なのですから。
だんだん深く考えることもなくなってそうやってお年寄りに皆誰しもなっていくのでしょう。
何でもよく知っているようで実際は単調な話をするお年寄りも多いです。
しかも「聞かれてまずいこと」は口ごもったり、黙り込んだり、聞こえない振りをされます。
「病気について聞くのはよいが死について聞くのは微妙」
会話、話しをできると言うことはまだ健康に自信があるお年寄りが多いですが、それでも「死」がすぐ隣にある実感はだれしも70歳、80歳になれば感じるものだと思います。
やり残したことがあるような、ないようなそんな気持ちで日々を過ごしておられるはずです。
人間って最後はどうやって死ぬのが一番幸せなんでしょうか。
1つわかったことは他人からは暇そうに見えたり、相手をするのが面倒と思われるお年寄りもいると言うことである。
この世に何かを残したいような、別にどうでもいいような。
とりあえず「暇そうですね」はまずそうなことはわかった。実際暇なのだから見えたままでヒネリもない。
「忙しそうですね」
それも嫌みか。裏返しただけだしな。
「新ドラマ始まりましたね」
「見てない」
せめてNHKのドラマでも見ていてくれればまだ広がりがあるのだが、スポーツ嫌い、大相撲嫌いなので相手をするのがめんどい。
そのためにスポーツを年寄りほどテレビにかじり付いてみる気もない。大相撲もどちらが勝とうが、だれが優勝しようが興味がわかない。
■年寄りとの会話は続かない
たいていが昨日のテレビ番組の確認と単調なありがちな感想になるためやりとり、会話が続かない
角度がついたするどい意見ばかりも疲れるだろうが、単調すぎるとつまらない。
10分も会話すると、
もう元気だとわかったからそろそろ・・・
顔を見たからもういい
話しの発展性がない
と思ってしまうときがある。(これは年寄りに限らず若い人でもこういうタイプは苦手だ、余り学ぶところがないと思ってしまうときもある)
本当に楽しいお年寄りは体験からでた知恵をたくさん持っている。
なぜその話しを出さないのか?忘れてしまったのか?
年寄りとありきたりなテレビの話しをしてもつまらない
年寄りこそ体験を語るべきだ。
昨日みたテレビ番組の確認作業など何の面白味もない。そんな話しにお年寄りが生きてきた存在の重みを感じない。(わびさびを感じろといっても難しいのである)
若者だってお年寄りに合わせて、耳を傾ける姿勢は持っている、根気強く話しを聞く気持ちは持っているのだ。
それくらいの配慮は小学1年生でもできる。
小学生でお年よりのペースで話くらいできるのである。
しかしお年寄りの側がある意味
「こんなもんでいいだろう」
「適当に世間話をしておけ」
「全員子供みたいな年齢だ、子供扱いしておけばいい」
と若い世代をなめてはいけない。
そんな若者に迎合してテレビの話しを出しているならやめてほしい。
何の価値もない。
昔の話しを聞かせてくれ。
ゆっくりでも、耳が遠くても、しゃべりづらくても
それでもお年寄りが話す。
若者はそんな本当の話にだけ興味があるのだ。
だれでも言えるようなコメントを求めているのではない、ましてや昨日のテレビ番組などの話をわざわざお年寄りから聞きたい訳じゃない。
そのありきたりの話を聞くのはうんざりだ。
お年寄り相手にこちらが
「そうそう」
「ふーん」
「すごいですね」
とまるでお年寄りに対して「子どもを相手にするよう」に表面的に聞くふりをすることはできるだろう。
しかしそれはお年寄りを遠ざけて、腫れ物扱いしているに等しい。
会話は一方通行で成立していない。
個人としてはそのお年寄りはまるで子ども扱いなのだ。
そんな寂しいことはしたくない。
○○さんの話を聞いた
○○さんの話はおもしろい
○○さんの話しをもっと聞きたい
よかったと思いたいのだ。
テレビの話しだけじゃそれには不十分だ。
「お年寄り全般」とひとくくりにしたくないし、されてほしくない。
お年寄りこそ個性ある人格であってほしい。
若い世代もお年寄り的なモノは嫌いじゃないし、むしろ長く生きてきた味はお年寄りにしか出せないので好きだ、しかし「テレビのような単調な話だけ」はもう飽き飽きなのだ。
テレビの話しでもいいがストーリー、スポーツであれば展開を追っただけのような、普通すぎる会話は退屈でしかない。
それしか話のネタがないなら、ちょっとはテレビを消して勉強するなり、自分の人生を棚卸しする時間を作ってほしい。
そして語ってほしい。